もっと痛い目に合わなければ、国民は目を覚まさないのか

こんなひどい政治なのに、なぜこうも変わらないのか。
国民はもっと痛い目に合わないと、分からないのではないか。
いや、今はまだ耐えられるレベルなのだ。だから、ギリギリ崖っぷちまで追い詰められなければ、彼らは立ち上がらないのだ。
そう思いたくなる気持ちは分からなくもない。
しかし、その理屈だとこうなる。
今の安倍政権の暴走を思うままにしておけばいい、消費税10%になれば目を覚ます、と。

これは、人間というものを、入力したら必ず同じ答えを返す機械や、天候で生育が左右される植物のようなものとして見るようなものではないか。
人間は、自ら考え、自ら歴史をつくっていく能動的な存在である。
パスカルは、人間は「考える葦」だと言ったと昔習った。

フリードリヒ・エンゲルス(マルクスの盟友)が『フォイエルバッハ論』という著書で、歴史が作られる過程での人々の関わりと意識の関係について論じているところがあって、これがなかなか含蓄ある文章で、私の好きな箇所である。論旨はだいたいこんな感じ。

パッと燃え上がってすぐに消えるような運動ではなく、幾百千万もの人々が、民族全体が、行動を起こし、それが長期にわたって持続するような運動。それこそが、時代を変革し歴史を作り変える力である。では、その人々を突きうごかす動機の背後にある究極の要因は何か?それを解明すれば、歴史を動かしている法則を見つけることができる。

それは、神の意向でもなく、運勢でも運命でもなく、経済的利害関係からくる階級間の対立だという話だが、そこは深く立ち入らない。

たまたま読んでいた本で、とても意味深く面白い文章が目に止まった。

それは、「学習のある生活」(学習の友社、高田求 1988年)の中の、「理想と情熱」というお話。

心理学の辞書によると「情熱とは持続する感情の事」で、どんなに激しく燃え上がっても持続性が欠けているならそういうものは情熱とは言わない。では、そのような持続する感情としての情熱を支えるものは何か。それは理想なのだ。その理想が高く大きなものであればあるほど、それを持続的に追求するものとしての真の情熱が生じる。理想と情熱にはこのような相互作用がある。続く文章で、恋愛感情と行動を引き合いにして語られているのだけど、人間集団の行動全般に通じるものだと思う。

さて、社会運動(たとえば公害反対運動とか、性的マイノリティの差別解消の問題等々)というものを考えた時、その運動は一直線で目的に到達することはそう多くなく、むしろなかなかうまく進まず、一進一退を繰り返すことが多い。人々は様々な挫折を味わい、裁判闘争に敗北することも往々にしてあるが、それでもなおその運動を粘り強くつづけられるのはなぜなのか? そのような情熱が続くのはなぜか?
高田求さんが指摘するように、それらの運動に集まる人々が無計画に、短期的視野で行動に出るのではなく、目指すべき目標やあるべき社会展望に確信を持って、高い理想に燃えているからではないだろうか。理想が高ければ高いほど、そこに向かう人々の行動を持続させる力を強めるわけだ。

最近では、10月からの消費税増税を前に、「こんな生活苦の中で消費税10%増税をされてはもう生きていけないよ!」という怒りが広がっている。増税判断の材料だとされた「経済指標の改善」(景気は良くなっている!賃金が上がっている!)は、実は毎月勤労統計が政権の都合で歪められており、経済指標がむしろ悪くなっていた事実が明るみにでており、政府の増税の論拠は崩壊している。事実を知った国民の中に、「騙して増税強行かよ!」という強い怒りを呼び起こしている。実際に、富山県の某自民党参議院議員は、高岡市内でのある集まりで「自民党の次の選挙での心配要因は、消費税10%増税と勤労統計偽装問題だ」と言っているわけで、国民の怒りは尋常ではなく、政権を追い詰める力になっていることは間違いない。

怒りの感情は衝動的な止むに止まれぬ思いの行動を起こす動機になるし、その怒りが大きければ大きいほど、運動の大きな推進力となる。しかし、このような行動や運動が長続きするものになるのかどうか、という点をよく考えてみる必要がある。

巷では「消費税増税は嫌だが、財政のためにも社会保障のためにもいずれは増税が必要なんだろう」と考える人は多い。支配的といってもいい。増税推進側による行政機構やマスメディアをつかった圧倒的宣伝によって、庶民の素朴な感情はたやすくコントロールされる。増税を食い止める力を萎縮させる。

私たちは、消費税を増税しなくても現行税率のままで十分にやっていけることを主張している。当面の問題で考えても、国民の負担を減らす〜増税を中止し、社会保障のこれ以上の削減をやめさせる〜ことで、個人消費を増やして景気を好転させ、その結果税収を増やし財政を改善させる道が開かれるはずだ。さらに税金の応能負担を徹底していけば消費税を減税し、将来は消費税そのものを廃絶していくことだって可能であることを知っている。富める者がその力に応じて負担し、負担能力のないものからは負担を求めない、というあたりまえの税制に出来るし、またそういう社会をつくりたいという理想をもっている。そうした将来展望=羅針盤=理想をもっていれば、当面の増税反対運動を力強く戦えるのは当然のこと、長期的展望をもった持続的な運動の力の源になるだろうことは、納得できる理屈ではないだろうか。

安保法制強行の2015年は、何十年ぶりの規模となる国会包囲のデモや全国各地の集会が広がった。それに先立つ3・11での原発事故をきっかけにして、反原発・脱原発の運動も目を見張るような運動となった。盛り上がった当時に比べて下火になったといえる面もあるが、人々は粘り強く今日も「原発なくせ」の声をあげ続けているし(富山駅前では毎週金曜日、ほとんど一度も休むことなく今でも「いらんちゃ☆原発@富山」のメンバーがアピールを続けている)、戦争法廃止の運動が各地で展開されている。私の住む射水では、「射水でも実行委員会」が毎月必ず1回のデモ(冬場は講演会)を継続している。これを土台にして、今日の野党共闘の枠組みが発展してきている。継続されているこれらの運動は、今の安倍政治の方向性に大きな影響を及ぼしている。

消費税増税を食い止めなければ、そして選挙で安倍政権を支える自公勢力を少数に追い込まなくてはならない。だが、私たちの運動や選挙が思うような結果をもたらさないこともありうる(そんなことは絶対に避けたいけれど!)。仮にそうなったとしても、私たちは諦めずに運動を継続することができるはずである。社会は変えられるという確信を持っているし、またそれを多数の人々の確信に変える運動を継続しているからである。

社会運動を前進させるためには、いっときの感情だけで、思いつきだけで、脊髄反射的に起こす行動の水準を乗り越えて、物事に対する深い理解や洞察、政治的な力関係を見極めた成功・勝利への展望、その先にある目指すべき理想を掲げた運動へ発展させる必要がある。一部の人間ではなく多数の人間が、さらに絶対多数の人々が、同じ旗のもとに結束し自覚的に行動を起こす。ここにこそ、長期にわたる持続力な運動をささえ、社会を発展させ、歴史を塗り替える変革の力の源があると思う。

マルクスたちは今から200年近く前、当初は社会を変える運動(社会革命)は、一部の先進的扇動家たちとそれに導かれる人民大衆の力で進むものだと考えていた。少数者による多数者のための革命である。しかしその考えは過去のものであり、これからの社会変革は、絶対多数の人びとが自覚的に行動を起こしてこそ可能になる、という考え方(多数者による多数者のための革命。「多数者革命」と言われる)に到達した。その認識の発展は、当時の普通選挙制度を求める運動の広がりと軌を一にしている。

だから、私たちの運動は、粘り強い、地を這うような日々の活動(署名運動や集会や井戸端会議などの話し合等々。例えば、消費税に頼らない社会保障充実の道があるという話などを語り広げていく)の積み重ねによって人々の認識を少しずつ変えていくこが大事なのだ。政権が変われば政治も変わるというのはわかりやすい期待だけど、それだけではダメだったことは民主党政権の失敗で明らかになった。金融政策をちょいと細工すれば景気をよくできるといった論や、歪んだ税収構造(大企業・富裕層優遇)を放置して配分だけを平等にするといった主張にも注意が必要だろう。自民党政治が終わって新しい政権になっても古い政権から引き継がれた官僚機構などからの反発や足の引っ張りに、脆くも崩れる。新政権の方針と政策を強く支持し行政機構・経済機構、第4の権力と言われるマスメディアを支える人たちのなかにも深い理解者がいるような状況、政権とその政策が国民から広く力強く支えられる土台、多数の人々の政治・社会への認識の深みが問われる。「あとはお任せ」という態度が国民の多数のままでは、新しい政権は支えられない。

「もっと痛い目に合わなければ、国民は目を覚まさない」というのは、傍観的な態度であり、人間は自らの未来を考え、作っていくという能動的存在であること軽く見る(あるいは見えていない)ためにうまれる態度である。またそれは、一見政治・社会を批判する立場に立っているように見えるが、客観的にはその政治を合理化し、現状肯定の考えなのである。それは権力者にとっては実にありがたい援軍にしかならないということを理解する必要がある。